かん子の連載

私の恩師シリーズ 3 <犬飼先生その四>

実は犬飼先生の名前は大学でお目にかかる前から知っていた。
1970年に学研から「銀の国からの物語」という翻訳本が出ていてその訳者だったからだ。
私は数字は全然覚えられないが、文字は覚えようとしなくても覚えられる。
なので、その名前の文字には見覚えがあったわけですよ(丸谷才一も私にとってはミステリーの「日時計」の翻訳者だった。これは、原作はたぶんそんなに名作、ではないと思うが、翻訳がめちゃめちゃいいので忘れられない一冊になっている。鴎外の「即興詩人」みたいにーー。おしゃれな小説を読みたい人は試してみてください。最近復刊されたから手にはいるはずだから。なので大学で「ユリシーズ」の訳者としてテキストでお目にかかったときにはぶっ飛んだ。偉いかただったんすね~😅)。
ところがこの本が、読めなくて読めなくて、苦心惨憺した一冊だったのだ。
いままでで一番苦労したのは言わずと知れた「白鯨」だが(あれを名作と看破した人には頭が下がる。なにせ長い上にストーリーは五パーセントくらいしかなくて、あとはえんえん捕鯨の話しかないんだから。読みづらいったらありゃしない)だが、その次くらいに読み終わるのに苦労した本だったのだ。
普通本を読むのには困らなかったので、しかもそんなに難しくない内容なのに、なぜか読みにくい。
なぜなんだろう???
というわけで覚えていたわけですよ。
というわけで、大学にいったら名前があったので授業とりました。
で、話を聞くようになって驚いた。
ものすごーく、話し方がゆっくりなのだ。
とても論理的でまるっきり肉のついてない、筋のとおった話を言葉を選び選び、ゆーっくり話す。
そんなにゆっくり話す人にはあとにも先にもおめにかかったことがありません。

普通黙読するときには早く読むものだ。
もしかして、これは……と思い、試しに先生の呼吸で読んでみたら……。
あら、わかるじゃないですか?!
えっ?!
これって、音読のスピードで書いてあるの?!

新美南吉は音読の人だ。
新美南吉は黙読のスピードで読むと、そのよさがわかりにくい。
「和太郎さんと牛」くらいになると黙読でもいけないことはないが、それでもうまい人に朗読されるときの比、ではないですね。
だから新美南吉は絵本向きだ。
絵本は朗読されるチャンスが多いし、ページをくる時間があるためにどうしてもゆっくりになる……というか時間調整をすることができるからだ。

長いこと物語は音読されるものだった。
昔話は語られる、ものだった。
それが近代になって黙読になるわけだけど、南吉の時代にはまだ音読の世界も残っていたのだろう。
明治時代には、作者が小学校をまわって語り聞かせていたこともあったのだから(ちなみに賢治は音読しないとわからないもの、黙読しないとわからないもの、どっちでもいけるもの、全パターンあるように思う)。
でも!
まさか!
翻訳ものの分厚い児童書を音読のスピードで読むなんて、思いつかないじゃないですか?!

そうか……。
文章というのは書き手の肉体の生理的なものに左右されるんだなぁ、というのは新鮮な発見だった。

谷崎のように“、”がない長い文章は体力がないと書けないのだ(従って音読するなら音読者にも体力がいる)とか、西村京太郎はいつのまにか“、”が増えた。
いまなんか、一行に下手したら六つくらいありますね~。
それを、作者が書いているのだから、とその通り音読すると、とたんに十津川警部が70代になってしまふ。
四つくらい抜かないと40代にならない。

活字の文学の読書が難しいのは、一つにはこうやって、自分で演出してその話を立ち上げていかないとならないからかもしれない。

私は犬飼先生のおかげで文章にはとても気をつけるようになった。
自分が読みたいように無意識に読むのではなく、作者の意図を察し、なおかつ読者にも合わせなければならない、という視点が必要なのだ。
そのあとしばらく視覚障害者のための音読にはまっていたことがあるのだが(だから「こちら本の探偵です」には朗読テープ、あるんですよ)そのときにも、とても役にたった。

朗読するには技術が必要だが、近代文学になればなるほど、作者が朗読を想定していなかったものになればなるほど、朗読のハードルは高い。
絵本は音読目的で作られることが多いが、絵本でも音読に向くものと向かないものがある。
向かないものを立ち上げるには、プロの力量が必要だ。
うまくいけば新しい世界が開けるけどね。
「ブライデイさんのシャベル」や「ライラはごきげんななめ」や「飛行士フレデイ・レグラント」はそのままだとわかりづらい、音読されたほうがずっと光る絵本だ。
そういうことには関係なく音読しなければならないこともあるが、芸術、として読むときには何を音読するかはとても大事ですよ。