かん子の連載

【赤木かん子還暦おめでとう企画】 55 かん子さんとの思い出

かん子さんとの思い出   by koyateru

かん子さんの事を知ったのは、確か1983年(昭和58年)頃の朝日新聞家庭欄に載った「子どもの本の探偵をします」という記事でした。私は、どうしても探して欲しい本があったので、すぐに連絡をしました。返事こそありませんでしたが、「本の探偵 赤木かん子」という名前は、深く心に刻まれました。
 結局、この本は、かん子さんと親しく話すようになり、あっさり解決しました。
『デブの国 ノッポの国』(アンドレ・モーロワ)です。デブのお兄ちゃんとのっぽの弟が、お父さんとピクニックに来た事から始まった物語で、積年の知りたいという思いが解決して、本当に嬉しく、もちろん本は、購入して読み直したのは言うまでもありません。

 さて、勤務する小学校の子どもや我が子に毎日読み聞かせをしていた私は、新しい児童文学情報が欲しくて、どうしてもかん子さんに会って直接話を聞きたくなりました。「子どもの本の今を語ってくれる」と思ったからです。でも、どうやって?と思っていた私に当時滋賀県高月町図書館長だった明定義人さんとジョイントしての企画がとんとん拍子に決まり、東京で開催できました。
 その2日間は、本当に楽しく充実していて、すべてをテープ録音した私は、どうしてもテープ起こしをしてまとめてみたいという思いに駆られました。
 そしてできあがったのが、講演会記録集『子どもと図書館』(1995)です。
 かん子さんの講演を何度も聞きながら、「主述にぶれがない」「(レジメなどないはずなのに)講演の構成力が素晴らしい」ことに気がつきました。「そうそう・・」と深く共感しながらの作業でした。
 講演の中で一番心に残ったのは、「女は50才で曲がる」という話。当時30代後半だったかん子さんは、尊敬している女性が50才を境に変容していく姿が耐えられなかったようで、
「だから、私が50になって変になっていったら、『へんだよ』って教えてね」と言っていました。
 私は、「有名人なのに、偉ぶらないし、こうしてお願いするなんて」と思いました。
 さて、1度目の講演が終わり、今度はどうしても沼津でもやってみたくなり、沼津でも東京都同じように2日間行ないました。こちらもテープ起こしをして冊子にまとめることができました。(『子どもと本と図書館と』1996)
 かん子さんには、「山のように講演やってるけど、こうして本になるのは初めて」と言ってもらい、ここから、かん子さんの講演を沼津で何度も頼むようになりました。
 多分10回以上来てもらっていると思います。かん子さんファンは多く、人を集めるにはそれほど苦労はしませんでした。
 
 かん子さんから自分の知らない本の紹介を聞くのが楽しかったのですが、かん子さんはいつの間にか学校図書館の改装や調べ学習も行なうようになっていました。
旧ポプラ社屋で『ポプラディア』の使い方も教えてもらいました。教員の私が、学校の授業で使う内容を教わる日が来るなんて・・と少し複雑な気持ちでした。
その後、かん子さんは、学校へ図書館を使った授業を行なうためにに多くの学校に出かけて行くようになり、静岡市の塩谷京子先生と出会って

『調べ学習の基礎の基礎』やその授業編である『しらべる力をそだてる授業!』が生まれました。
私は、塩谷学級で行なわれた全授業を参観する機会に恵まれ、かん子さんの授業展開のうまさに驚きました。講演で無駄な言葉をそぎ落として話しているので、余計な言葉が入らないのです。
当然、授業を受ける子ども達も本当に熱心にかん子さんの話に聞き入っていました。

こうしてかん子さんとの20年以上の思い出をたどっていくと「50才を超えても曲がらなかったなあ」と思います。
22年前に「50才を超えて変になったら教えてね」という言葉を聞いたからには「変になったら言わなくちゃ」とずっと一人で責任を背負ったつもりでいましたが、言う必要なく60才になってくれました。だから、きっとこれからも大丈夫だと思います。
いつまでも「子ども」と「子どもの味方をする大人」の味方であるかん子さん、今後もたくさん発信し続けて下さい。
応援していくと共に、私もあと少し現場で頑張りたいと思います。