かん子の連載

【赤木かん子還暦おめでとう企画】 87 「灯台」

「灯台」   by eda

2年前の私は、途方に暮れていた。
例えるなら、騎士として名乗りを挙げたにも関わらず、いざ戦いの場に臨んだら、自分がほとんど丸腰だということに気づき
「あれ?…もしかして、私、戦えないんじゃない?」と血の気がサーッと引いた……という感じ……。

事の始まりは、平成26年、秋……。
私の住む町で、町長を交えての「子育てタウンミー
ティング」が開催された。

この町には公共図書館がなく、唯一、公民館内図書室が「それらしき」ものとしてあるが、普通の町役場職員が管理しているこの図書室は、ご想像の通り、古い本がギュウギュウに詰め込まれ「図書館」としては全く機能していない、非常に残念な状態だった。
そこで私は「ソビエト連邦」が記載されている地理の本を見せながら
「この図書室の惨状は、町の怠慢である。いくら『図書館』でないとはいえ、それが『だから、何もしなくても良い』という言い訳にはならない。この町の子どもたちにとっては、一番身近な『図書館』はここなのだから、適切な人材を雇って、きちんと機能させていただきたい。」
と発言した。

……そう、あくまで『誰か』を雇ってくれ、という要望として……。

それが何故か、話が思いもよらぬ方向に転がり、やがては
「来年度から、モデルケースとして町で『学校図書館支援員』を配置しようと動いているが、とりあえずあなた一人しかいないので、引き受けてもらえないだろうか?」
と、ブーメランのように、私への依頼として舞い戻ってきたのだ……。
そして、その時点で、私はようやく気づいた。
「もしかしたら、この町には『図書館』というものについて何らかの意見を持っている人間は、私一人しかいないのでは……?」
と……。

それまで図書館勤務の経験もなく、ましてや司書の資格もない一介の主婦に、こんな話を振ってくるということ自体、正気の沙汰ではない(!)とは思ったが、もし、ここで断ったら、この町の学校図書館は、学校司書はおろか図書館員が一人もいないという現在の『暗黒時代』から、この先何年も抜け出すことが出来ないかもしれないと考えると
「やります」
というほかなかった。

……かくして平成27年度から、私は町で最初の、そして唯一の『学校図書館支援員』となった。

事を引き受けたのはいいが、とにかく後ろ楯となる知識がない。
町では、はなから、書架の整理や、子供たちへの貸し出し・返却の手伝いをしてもらえればいいんじゃない?という考えなのが明白だったが、でも、そんなんじゃ、何年も手を入れて来なかった学校図書館が
「どうにかなる」
わけないじゃん!!
と思っても、私にはそれを
「どうにかする」
だけの知識も技量もない…。
そのとき目にしたのが、かん子さんのHP上での『アクティブラーニング講習会』開催の告知だった。
「これは、神の思し召しかも!?」
まさに、そんな思いで、私はかん子さんの『アクティブラーニング講習会』に飛び込んだ。

それまでに、かん子さんの『図書館員ハンドブック』『分類の本』は読んでいたし、高崎絵本フェスティバルで、かん子さんの司書講習があることを聞きつけ、それが本来は群馬県の司書の方々対象であったにも関わらず
「立ち見でもいいので!」
と聴講させてもらったりもした。
だが、その程度の脆弱な知識では、当然ながら
「何もできない自分」
に打ちのめされることになる。
1つ知り、1つ動くと、それ以上の疑問が湧いてくる。それを解消させない限り、前に進めない…。

そんな私にとって、ほぼ月1ペースで開催されるこの講習は、たまったモヤモヤを月1で解消できる、希望の場所だったのである。
毎回、頭を針でつつけば破裂するのではないかと思うくらいパンパンに、かん子さんの話を詰め込み、帰りの電車の中で整理する。
午前10時から午後4時まで(時々は、そこからさらに時間延長もあり!)脳みそをフル回転させているので、疲労感はハンパなかったが、それが、私の血となり肉となり
「またこれで仕事を続けられる」
という勇気と希望を呼び起こしてくれたのである。

その後、勤務時間が変わったりなどで、翌28年度は残念ながら講習に通い続けることができなくなってしまった。
でも、学校図書館支援員としてこうして立っていられるのは、あの1年間の『アクティブラーニング講習』があったからであり、そこで学んだことは、迷って立ち止まった時に、進むべき方向を照らしてくれる灯台として、今でも私の中にちゃんと存在しているのである。