かん子の連載

LGBTQ+の本棚から 第254回 遠回りしたら僕から・4

トランスジェンダーの林ユウキさんからの寄稿を数回に分けてご紹介しています。
※この寄稿文はブクログには掲載しません

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【遠回りしたら僕から・4】

 中学校に入ると、ますます男女で分けられることが多くなった。
 制服は当然のように男女別だったし、体操服のジャージの色も男女別だった。ただ制服に関しては、スカートは膝下丈で長かったし、いつもはジャージ登校で式典の時しかそのスカートも着る必要が無かったので、それほど嫌だ、とは思わなかった。
 子どもの頃母に「紺色が似合うね」と言われたのがずっと嬉しかったので、紺色のセーラー服のこともそれほど嫌いじゃなかったのも嫌じゃなかった要因かもしれない。
 ジャージの色も男女で分かれていたけど、男子のジャージーがめちゃくちゃダサい青で、女子のえんじ色のほうがまだだいぶマシだったから、こちらもあまり嫌だと感じなかった。
 中学校の服装に関して嫌だった記憶があるのは、陸上部の大会用の服くらいだった。
 この服を見たときは、陸上部に入ったことを激しく後悔した。
 めちゃくちゃズボンの丈が短くて、丸みを帯びてきた太ももが隠せなかったからだ。めちゃくちゃ嫌だったから、対抗策としてスポーツ用のスパッツを履いてみたりした。
 といっても、丈の短さは男女共通だったから、男子用の服だとしても太ももは隠せなかったのだけど……。
 体育の授業選択も男女で分けられた。そのときは、男女で分かれる授業があることにとても驚いた。
 分かれているのは性差で体力や筋力が違ってくるからだそうで、それはそれで納得した。 それに、だったら男子のほうのグループに入りたかったのか、といわれるとそうとはいえなかったと思う。ただ、選択授業が女子はダンスなのに、男子は剣道・柔道だと聞いたときは、剣道がいいなと思ったのを覚えている。
 でもそれは厳密には男女差の問題ではなく、好みの問題だと思う。男子にだって、柔道より踊りたい、と思う人はいたと思うから。もっと自由になったらいいのにな。
 さて問題はあいかわらずトイレだった。
 その中学には小学校のように別校舎にトイレがなかったので、人がたくさん出入りするところしか使うことができなくなり、とうとう学校でトイレに行くことは、ほとんど無くなってしまった。
 ナプキンは1日つけっぱなしの日もあった。生理の始まっている子もかなり増えていて、女子トイレでナプキンを変えるなんて女子には普通のことだから、誰も気に留めないはずなのに、行けなかった。
 一度行ったときは、今何人使っているかスリッパで確認して、隣の個室が使われていないのを確認して一番奥に入った。ナプキンの包装はゆっくりとペリペリはがしたし、そこにいる間は上から誰か見ているんじゃないか!?と無駄に警戒していた。まるでスパイのように……。自分的には難しい任務を達成しようとしているといえば、そう言えなくもなかったけど。 
 唯一別の場所にあったのが体育館の近くのトイレだけど、教室からはかなり遠いし、そこにわざわざ行けば目立つし、不良のたまり場になってるというしで、そこは使えなかったのだ。この時はまだ自覚がなかったからわからなかったけど“男なのに女子トイレに入って生理の処理をする”ということに耐えられなかったんだと思う。
 かといって男女共用トイレがたとえあったとしても、あえてそこを使うというのは難しかった。学生ならわかると思うけど、間違いなく目立つから……。
 だから、じゃあ学校はそういう生徒に対してどう対応すればいいのか、に関しては当事者の僕ですらいまだにわかっていない。 
 トイレ以外にも、もちろん問題はあった。胸は大きくなり、体育の時間は小学校の時より走ると痛いし、傍から見ても揺れるのがわかる。他にも揺れている子がいるから自分もそう見えるのだろうなと思ったし、それを見て男子が何かこそこそと話しているのも嫌だった。だから片手で体操服の裾をもってお腹のあたりに膨らみを作って走ったりしていた。そうすれば胸が目立たないから。
  体育の授業だけじゃなく、日常生活のジャージとかでも胸が目だつのが嫌で前かがみになってしまうから、どんどん猫背になっていった。母に猫背矯正のシャツを買われたりするくらいに……。
 あげくのはてに不登校になってしまったのだけど、なにが理由かと聞かれても決定的な理由というのは特になくて、性的に大混乱して収集がつかなくなっていたことと、クラスでの人間関係でちょっとしたいざこざがあったこと、小学校より難しくなった勉強の行き詰まり、あとは家庭環境なんが積み重なった結果なのだと思う。
 特に家庭環境が……。僕はそれまでも祖父とすこぶる相性が悪かった。
 いや、僕だけじゃなくて、家族みんなかも。祖父は支配的ですぐ怒鳴る人で、父も誰も逆らうことができなかったので、家の中はいつも緊張してピリピリしていた。
 僕と妹を連れて、母が家を出ていこうとすることがあったくらい、家族関係が悪い時もあった。だから、僕はこの家はいつバラバラになるかもしれない、といつも不安に思っていたのだと思う。そうして両親が離婚したら、自分も捨てられてしまうかも、と、いつも怯えていたのだということが、いまではよくわかる。
 そうしてたまたま小学1年生の時に硬筆で市の子ども展の賞をもらって、校内のマラソン大会でも入賞したら家族みんなが褒めてくれて、家のなかがすごく和やかになって、いい感じになった。だからそれからは毎年、硬筆と書道とマラソンで賞を取るように頑張るようになった。そうして高学年になった頃には、自分のなかでそれはもう義務のようにすらなっていた。
 だから書初めが廊下に張り出されてから金賞が決まるまではもうずっとハラハラしどうしで、胸とお腹の間のあたりに重い球があるような感覚になって、辛かった。
 無事に金賞がもらえたときには心の底からホッとしたが、先生は僕がそんなことを思っているとは夢にも思っていなかったのだと思う。
 マラソンもたまたま足がそこそこ速かっただけで好きなわけでもなく、周りの子たちが楽しそうに競っている順位も本当はどうだってよかったけど、いい成績を取らなきゃいけないと思いこんでいたからとにかく頑張った。
 楽しまないでやることは全て苦痛だ。だけど僕は家族を平和にするためにそうするのが自分の義務だと思いこんでいたから、そうしなければならず、必死になって頑張った……。
 それに自分ではそのときは気がつかなかったけど、それは表向きの理由で、本当はそうやって価値のある子どもだ、ということを示すことができれば、すこしでも捨てられる危険性が減る、と思っていたのかもしれない。
 中学生になって書道とマラソンがなくなると、自分の価値を示すのに使えるものがなくなった。部活は陸上に入ったが、速い子しかいない陸上部には自分より足の速い子がたくさんいたし、勉強も英語と数学がものすごく苦手だったので、いくら頑張っても小学校のときのように優等生ではいられなくなった。
 そんな時にクラス委員長決めがあり、誰も立候補せず、シーンとした場の空気に耐えられず、手を挙げた。引っ込み思案で人の前に立つのが苦手だったくせに、クラス委員長になった。仕事もわりあい簡単で、できないことはないと思ったからなのだが、やるからには結果をださなければならないとこれまた頑なに思いこんでしまい、自分で自分を追い込むようになった。
 これもいま考えれば委員長というものになって、自分に値打ちがあると思ってもらいたかったのだろうと思う。
でもいったい誰に?
なんのために??
なにをしたかったのか……。
 いま思い返せば本当に滑稽だと思うけど、そのときは大真面目に必死だった。
 もっとも不良といわれている子たちとたくさん話して仲良くなって、教室に来てくれるようになり、一緒に授業を受けられるようになったときはとても嬉しかったから、悪いことだけではなかったけど……。
 でもやっぱり性格的にあまり向いているはずがないのだから、相当無理をしていたのだと思う。学年の前で発表するときなんかは、何日も前からものすごく緊張していたりしていた。
 2年の時にはクラス委員長をやりたいけど周りに推薦してもらいたいなぁ!という感じの子がいたのに、僕が委員長になってしまったときがあって、そこからその子のグループの子たちから陰口をたたかれるようになった。
 そうした日々のあいだにも、僕は体の急激な変化に翻弄され、それに対応するだけでいっぱいいっぱいになり疲労困憊していたので、陰口をきっかけに、あげくのはてには周りの声が全て自分を嘲笑っているんじゃないかと思い始めるようになった。
自分がどれくらい女の子らしく見えてしまうか、という心配にプラスして、周りの人がみんな自分を悪く思っているんじゃないかと思いだしてしまったのだ。
 疲労は余裕のなさとして部活に現れた。部活でも先輩との関係が少し良くなかったので、それを跳ね返して参加するだけの力がなかった僕は、部活に行けなくなった。いわゆる幽霊部員になった。正々堂々ボイコットする!という度胸はなくて、仮病をつかった。足が痛いといって休み続けた。ちなみにこれは小学6年生のマラソンの授業中にも使ったことがある。本当は大嫌いなマラソンが辛すぎて、途中で走れなくなってしまったのだ。楽しみながら走れたら、部活もマラソンの授業ももっと楽しく出来たのにな。

 そんなこんなで次第に僕は周りの声や視線に耐え切れなくなった。 
 そして中学2年生の2月、ついに学校に行けなくなってしまったのだ。
 登校時間になっても僕が部屋から出てこないので、学校に行くことを促しに来た母に「学校に行きたくない」と何度も繰り返した。父もやってきて、どうしたんだと聞かれたけど「学校に行きたくない」としか言えなかった。
 それから、どうして行きたくないのかを尋ねられ続けたのだが、自分でもよくわからないものを答えられるわけがない。どうにか言えたのが「精神科に行きたい」というセリフだった。
 両親の動きは素早かった。あっというまに僕は母と最寄りの大きな精神病院に行くことになり、そこでうつ病と診断された。そうしてそこの先生が僕には休養が必要だと言ってくれたおかげで、僕はようやく学校には行かずにすむようになった。
 不登校になったら、その生活はものすごく快適になった。
 誰の目も気にせず自宅のトイレにいつでも行けるようになったし、四六時中自分がまわりにどう見えているのかとか、体のラインをいちいち気にしなくてよくなったのがすごく快適だった。
 そのことで、ふだんそういうことにどれだけ神経をすり減らしていたかにようやく気がついた。
 当時の僕は常に自分の体の違和感と闘っていて、それだけで疲れ切っていたので、他者との関りで生じる部分の問題がなくなっただけでもとてもありがたく、心の底からほっとした。
 結局中学2年生の冬から卒業までの1年間、僕は不登校のままだった。 
 僕はもともと臆病で、大人に怒られるのが大嫌いで、いつもいい子でいたかったから、ずっとまわりを気にしていた。
 祖父がとても怖い人で、家では誰も逆らえなかったことから、言いたいことや嫌なことも全部、自分で自分を抑えこむ癖がついてしまっていた。そのぶん、いま自分はどう感じているのか、とか、自分はいまどうしたいのか、みたいなことを感じる力が育ってなかったのだと思うし、主張する力も育ってなかったのだ。自分の意見を言うと、怒鳴られたから……。
僕がもっと、いわゆる“男らしい”タイプだったら、「そんなの知らん!」と言い返し、5歳くらいでもう「スカートなんて絶対穿かない!!」と泣き叫んでいただろうし「女となんて遊ばない!」といったかもしれないし、「男の子と一緒に野球やサッカーをやるんだ!」と断固主張したかもしれない。 
そんな子どもだったら、自分は女じゃなくて男なんだ、という自覚ももっと明確で早かったのかもしれないが、あいにく僕はそういうタイプじゃなかったので、自分がいったい、なにをどう感じているのか、ということに気がつくだけですら、こんなに時間がかかってしまったのだ。

~次回に続く~

次回は2月に掲載予定です。

2023年01月23日