お知らせ つぶやき

最近ようやくわかってきたこと

最近ようやくわかってきたこと

私は学校が嫌いです。
いま小学生だったら絶対不登校になってると思う。
もう100%の確信がある!
😁
で、それがずっと不思議だった。
友だちはいなかったけど、いじめられてたわけじゃないし、私はとにかく本に夢中だったからどっちみち人間なんて、どーでもよかった(ま、それは確かに問題かもしれないが)。

先生にも嫌われてたけど、別に意地悪されたわけじゃないし、伸ばしてもらうことはできなかったけど、これも自分で勝手に伸びればいいだけなので、別段そこに不都合は感じなかった。

なのに、なんであんなに学校にいると息ができない気がしてしんどかったのだろう、とずっと漠然と思っていたのですが、子どもたちに探究の仕方を教えるようになってわかった気がしました。

学校の先生は間違ったことを堂々と教える!?

私はそれが辛くてたまらなかったんだと思います。
子どもだから、まさか先生が間違うわけないよな、というのもあるし(だから、からだが引き裂かれる感じがする)それをどう言葉にすればいいかわからなかったし(私がいまそれができるようになったのは、当時できなくて苦しかったからだと思う。どうやっていえばいいのかってずっと考えてたんだと思います、無意識の私は)先生に、それをもし言えたとしても、納得してくれるような人たちではなかった。

納得してくれるような人だったら、最初から間違えないよな、というのもあるし。

でも、本能的に(😅)
それは違う!?
ということを先生がたが言うたびに、私は苦しくてつらくて息ができないような気持ちになってたんだと思います。
しかもそれはしょっちゅう起きた。
特に国語の時間に。
だから、逆に得意じゃなかったけど算数や理科の時間は楽だった。
こっちに知識がないから間違ってても気がつかないというのもあるのかもしれないけど、わりと理路整然としたジャンルは学習のステップも明確で先生がたも間違ってなかったんだと思います。
でも、国語は!?

もうもう、あってることってあるの?
というくらい、間違いだらけの話が続くわけですよ。

愕然!?
驚愕!?
そして、気分が悪くなる……。
だって、日本の子どもの本、に関していわれてることって、8割くらいがまちがいなんだもの。
なので、テストはできるけど、国語は死にそうになる時間だった。

第一、先生が物語の文章を読むとそこから違ってる。
先生!
そこの
「そうだね」
はそうやって読むんじゃないんだよ!
解釈が違う……。

というのを小学生が教師に言えるか?!
っての。

うーん
もうちょっと出来が良ければ言えたかもしれないが、私はそこまで天才じゃなかった。

たとえば
「てぶくろをかいに」
で、自分が怖くて行けない人間の店に、なぜ狐のお母さんは子どもだけ買いに行かせられるの?
って思わない?
そう聞いたらその先生は不機嫌になって、返事は返ってこなかった。

まぁ、この答えは大人になってから見つけたが。

「花咲山」は、主人公、妹に着物を譲って偉かったですね、自己犠牲は素晴らしい、きれいな花が咲くんですよ、という話じゃないんだよっ!?
なんて微妙な話を説明できるか?!

できないっすよ。

本をたくさん読んで、偉いわねえ

ええっ!?
本を読む=働かない
ってことなんですが

物語を読むと想像力がつきますよ

ええっ?
想像力ない人に、物語は読めないですから、第一読めないし、読んでも想像力がどうしてつくと思うの?

図鑑は本ではないですから、図鑑ではなく物語を読みましょう

ええっ?
図鑑が本じゃないなら、本てなんなのさ?!

もう切りがないくらい、国語の時間は間違いだらけだったんすよ。

私はそれがいたたまれなかった、本当は尊敬したい、尊敬してしかるべきだ、と思う大人たちが、したり顔で間違ったことを堂々と言っているのが、私は恥ずかしくてたまらなかったし、やりきれなかったんだなぁ、ということに、最近ようやく気がつきました。

高校にいってものすごくホッとしたのもなぜか不思議だったんだけど、高校の国語の先生ってまともだったんだよ。
今でも名前覚えてる。
羽生先生。
別に特に変わったことしてくれたわけじゃないけど、ようやく!
間違ったこと言わない、まともな国語の教師にであえて、私はすごく楽になりました。
本当に肩の上から重しがとれた。

そのあと代々木学院(予備校ね)にいって、驚異的に上手い国語の先生にであえて驚嘆したのですが、彼は本当に、凄かった。
なぜ、ここは、私は、でなくて、私が、でないといけないのか、を、きちんと説明してくれたんです。
5分で。

こんなことができるのか!?
これが国語の授業だっていうなら、いままでの12年間の国語の時間は何だったんだ!
時間、返せ!

だからその先生が私の今の基礎になってるんだけど、お金払わなきゃそういう話は聞けないんだ、というのは別の意味でちょっと悲しかったです。

なのでいまも国語の授業を聞くのは恐怖です。
トラウマがよみがえる&やっぱりまだ、間違ったこといってるのを聞くのがイヤだ。

学校はありがたいシステムです。
ビンボーでも基本的なことは教えてもらえる。
子どもをあづかって親が働けるようにしてくれる。
いいまともなご飯を安く食べさせてくれる。
日本の給食は世界一だと思うよ。

それが、たとえ優良な工場労働者を育成するためであったとしてもさ。
浮浪者が本読んでるのは日本くらいだもの。

でもいまでもやっぱり、学校行かなくてもよかったなら良かったのになぁ、と思う。
私には学校は必要がなかった。
いまはもっと、自分でやりたければいくらでも勉強できるようになったんだから、学校が必要ない人は行かなくてもいいと思う。
時間がもったいないよ。
てか、一つじゃなくて、いくつも選べるようにしてかなきゃいけないんだと思う。
今の学校が役に立つ人も一定数いるんだから。
その人たちは今の学校に行けばいいんだよ。

全国中学卒業試験
があって、学校行かなくてもそれにパスすればいったことにしてくれないかな。
皆勤賞とれば、それも、パスさせてくれることにしてさ。

というわけで長年の謎がようやく解けたのでした。