かん子の連載

LGBTQ+の本棚から 第283回 LGBTQ+の本棚から 第279回 遠回りしたら僕から・11

トランスジェンダーの林ユウキさんからの寄稿を数回に分けてご紹介しています。
※この寄稿文はブクログには掲載しません

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地元に帰って少しして、僕は男性ホルモン注射での治療を開始した。大学でどこにも馴染めなかった経験から、変わらなければと思ったのだ。

 2週間に1回くらいの頻度で注射を打ち始めると、3か月くらいで生理が止まった。これはとても嬉しかった。PMS、生理痛、ナプキンの不快感、その全てから解放されたから。でも1か月くらい注射を打つ間隔が開くと生理が復活するので、いまでも3週間に1回くらいの頻度で打ちに行っている。

 そして1年くらいすると声もだいぶ低くなった。見た目はあまり変える気がなくて割と中性的なままだったけど、声が低いとパス度(外見の性別と心の性別がどれほど一致しているかを示す度合いのこと)が段違いだということを実感した。

 中性的な女の子として働いていたバイト先で声の変化を隠し切れなくなってきた頃合いで、ある専門学校に入学しないかという話が出た。

 妹のオープンキャンパス先の学校に、歯科技工学科というものがあり、昔から手先が器用だった僕に向いているのではないかと母が勧めてくれたのだ。

 特に夢もなく、バイト先も変えたいと思っていた僕にはちょうど良いタイミングだった。

 すんなりと入学は決まったけど、1つ問題が浮上した。入学する頃には中性的とはいえ男になっているわけで、本名のまま生活するのが難しいのだ。先に考えておくべきだったけれど、とりあえず学校に通って親を安心させたい!の一心と行き当たりばったりで生きていたのですべてが決まってから気づいたのである。

 ということで、通称名で通うことができるのか、男性として通してもらえるのか、ダメ元で学校に問い合わせたところ、なんとそれで通わせてもらえることになった。

 さすがは医療系というべきか、トランスジェンダーに関して理解があり寛容だった。

 名札と、クラスメイトが目にすることのある名簿や資料はすべて通称名にしてくれた上に、更衣室を一室僕のためだけに手配してくれたのだ。今でも本当に感謝している。

 そうして入学したのだけど、意外とうまいこと馴染むことができたと思う。クラスメイト12人中8人が現役生ではなく、20代~30代の大人だったのが良かったのかもしれない。必要以上に他人に深入りしない、適度な距離感のクラスだった。

 クラスは問題なかったけど、嫌なことはあった。1つ上の学年の先輩(年齢的には後輩だが)に、大学の時と同じように「男なの?女なの?」と聞かれたのだ。今回は男だと言ったが、おそらく信じてもらえてはいなかった。廊下ですれ違ったときに壁を殴られたりしたので。この壁殴りが僕の人生で最初の直接的な加害だった。できるだけ鉢合わせないようにして、彼らが卒業まで耐え抜いたけど、そのストレスは確実に僕の心にダメージを与えていった。

 このことで、もう一歩さらに性別移行を進めようという気持ちになり、1年生の12月に名前を変更した。いろいろ申請には条件があったけれど、診断書を既にもらっていることと、通称名を使って生活している実績があったりして、思ったより簡単にすることができた。通称名を使っている実績には学校の名札と、友だちとの文通の手紙の宛名を使った。家庭裁判所に赴いたときには、裁判所ってどんなところなんだろうとドキドキしたりしたけれど、普通の会議室という感じだったりして、なんだか面白かった。

 願いや思いを込めて名付けてくれた両親には少し申し訳ない気持ちもあったけれど、自分で思いを込めて決めた名前で堂々と生きていくことができるというのは、なんだかくすぐったいけれど、とてもすがすがしい気持ちになるものだなと思った。

しかし名前を変えて一歩先に進んだとはいえ、精神状態は少し悪いまま。そうして2年生になって、実習なんかをこなしたりしていたら、あっという間に冬になった。国家試験を前にしたストレスと元から悪かった精神状態が合わさって最悪のコンディションになり、学校にいけない日が増えた。つくづく学校にいけない人生だけど、学校生活という普通のことをするには健全な精神が必要なのだ。

 単位は先生たちが尽力してくださったおかげで、ギリギリ足りて卒業できたけど、問題は国家試験のほうで、最悪のコンディションで万全な対策ができるわけもなく、不合格だった。

 1年生の時の担任の先生にも、2年生の時の担任の先生にも、他にも学科全体でたくさんのサポートをしてもらったのに期待に応えられなかった。しかもそれはクラスで自分だけ。合格率がめちゃくちゃ高い試験に落ちたというショックは大きく、僕はまた人生に躓いた。

2023年08月28日